文:伊藤公雄(WRCJ共同代表)
男性リーダーに欠けるケアの視点
新型コロナ問題とジェンダーということで最近、あちこちでしゃべったり書いたりしている。その時、たいてい冒頭で「女性リーダーの国は、感染者割合も死亡者割合も低い」という話から入ることにしている。
実際、昨年5月段階で対応がうまくいった10ヶ国のうち4ヶ国・地域(フィンランド、エストニア、ニュージーランド、台湾)のリーダーは女性だ(ちなみに世界の国々の女性リーダーは7%しかいないと言われる)。
逆に「トランプ米大統領(当時)やボルソナロ・ブラジル大統領などマッチョなリーダーの国ほどひどい状況になっている」とも付け加え、「なぜだと思いますか?」と尋ねるようにしている。
いろいろな考察が可能だとは思う。ただ、ジェンダーという視点から見るとき、「ケアの視点」のあるなしは、かなり決定的なのではないかと思う。
コロナで男性中心社会の矛盾露わに
ここで「ケア」というのは、日本語でイメージする「介護」のことだけではない。もっと幅広く、「自他の身体・生命や思いに対する配慮」を意味するものだと考えている。
男性と比べて女性たちは、いわゆる「感情労働」を期待され、小さい時からトレーニングを受ける傾向が強い。感情労働とは他者の気持ちや感情に配慮することが重要であるような労働で、例えば看護師などがその代表例だろう。家庭での家事・育児・介護など人間の気持ちに関係する労働も、近代社会では女性に割り振られてきた。
逆に、男性たちは「男の子でしょ泣くんじゃないの」「弱音を吐いたらダメ」と、「感情を表に出すこと」を抑制する訓練が、子ども時代からしばしば行われてきた。
他人の気持ちや身体・生命だけでなく、自分自身の感情や、時には身体や生命さえ配慮せずに頑張るのが「(一人前の)男」であった時代が長く続いてきたのだ(近代国民国家成立以後の男は、兵士として命を捨てることも厭わないのが「立派」でさえあった)。
今回の新型コロナ禍は、ここ数十年世界を席巻してきた新自由主義の下での医療や福祉領域の切り捨て(ケアの社会化の縮小)のもたらした問題状況とともに、「ケアを重視しない」男性主導の社会の矛盾が露わにされたともいえるだろう。
ポストコロナ社会は、おそらくは「ケア」の精神に基づいた、ケアの普遍化(どこでもケアの視点を重視し)・社会化(社会の仕組みにケアを大胆に取り入れ)・共同化(ジェンダー規範を超えて、相互にケアしあう関係を構築する)が求められることだろう。
すでに女性運動の中からは『ケア宣言』(ケア・コレクティブ編、岡野・冨岡・武田訳、大月書店、2021)なども出版されている。「ケアを貶める政治を越えて、ケアに満ちた世界へ」と本の帯には書かれている。
ケアの議論がフェミニズムの領域で本格的に開始されたのはキャロル・ギリガンによる『もう一つの声』(岩男寿美子監訳、川島書店、1986年)だった。男性を軸にしたものの見方では見えてこなかった(主要に女性に担われてきた)「ケア」の重要性を明らかにしたこの本は、21世紀に入って以後、改めてフェミニズムの観点から読み直され、今や社会変革のキーワードになっている。
Caring Masculinity(ケアする男性性)
問題は、このケアの視座からの社会の再構築の声に「男たち」はどう応えるかだと思う。
EUでは、ここ10年ほど進められた「ジェンダー平等へ向けた男性・男児の役割」のプロジェクトで、「Caring Masculinity(ケアする男性性)」がキーワードとして提案されている。
介護が社会化されていることが多いEUで言うケアは、ほとんどが育児に関わっている。つまり「男性ももっと育児を」ということだ。ただ、日本でケアといえば、育児とともに介護という問題も浮上する。また、欧米の「まね」での政策立案というのも問題だろう。
そこで、こうしたケアの視座を日本に適応するにあたって、近年「男性のケアの力」の育成という提案を近年進めてきた。ここでいう「ケアの力」は2つの方向性を持っている。つまり、「ケアする力」とともに「ケアされる力」をも射程に入れようということだ。
ここでいう「ケアの力」とは、繰り返すが、他者(さらに自分自身も含む)の生命や身体、さらに生活領域をめぐる「配慮」の力のことだ。自分と他者の生命や身体、思いや関係性(さらに自然)への十分な配慮の力が男性たちの多くは欠けている場合が多い。
だからこそ、彼らは他者の身体や思いに配慮することなく、「問題解決」のために暴力を平然と振るってきたのだ。また人間の思いや身体、さらには自然への配慮を欠くがゆえに、無謀な開発を進め、経済的にもマイナスでしかない原子力発電所の増設を進めてきたとも言える。
男性のケアする力の構築を
男性の「ケアする力(育児や介護を含む他者への配慮の力)」の育成は、これまでの男性による女性への一方的「支配」に終止符を打つ可能性をもつだろう。多様な生活面(家事・育児から介護まで)で、男性たちが「ケアの力」を身につけるということは、近代社会における固定的な「男らしさ」からの解放とも関わる大きな課題だ。
他方で「ケアされる力」の成熟は、自分たちが1人で、他者の助けなしに独立して生きてきたという多くの男性が抱いてきた「自立幻想」を見つめ直すことにつながるだろう。
男たちは、実際は多様な人々の支援や助けに支えられてきた。にもかかわらず「男性=自律した存在」という思い込みは、「サポートされていること」「助けられてきたこと」を無視し、自分が(女性や目下の者に)サポートされているのは「自分に権威や権力が備わっているからだ」と、現実の(特に男女間の)支配と被支配関係の「正当化」を生み出してきた。
だから、「ケアされている」ことの認識は、女性への(無自覚な)依存からの脱出を導く可能性があるし、男性側にケアの重要性を認識させ、自分たちの積極的なケアする力の構築に向かわせる可能性も持っていると思う。
こう考えると、「ケア宣言」が必要なのはむしろ男性ということになる。男性の非暴力への道を切り開くにも、男性たちにこの課題を共有してもらわねばならないのだ。
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編集・構成:松田明功(WRCJ事務局 / スタジオ・ボウズ)