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【COLUMN】「Toxic Masculinity=有害な男らしさ」その訳語で大丈夫か? 男性に広がる剥奪感へ注目を(伊藤公雄) | ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン

「Toxic Masculinity=有害な男らしさ」そんな訳語で大丈夫か?(伊藤公雄)|ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン

文:伊藤公雄(WRCJ共同代表)

続発する男性による凶悪事件

「Toxic Masculinity=有害な男らしさ」そんな訳語で大丈夫か?(伊藤公雄)|ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン

ここ数十年ほどの間に理由のよくわからない「凶悪事件」が世界中で続発していることにお気付きだろうか。

ホワイトリボンキャンペーン発祥のきっかけとなったカナダでの「モントリオール理工科大学虐殺事件」(1989年)、アメリカでのコロンバイン高校銃乱射事件(1999年)、ノルウェーで起こった死者77人に及ぶ連続テロ事件(2011年)、ラスベガス銃乱射事件(2017年)など、記憶に残る事件も多い。

日本でも、秋葉原通り魔事件(2008年)をはじめとして、相模原の津久井やまゆり園の事件(2016年)、東海道新幹線車内殺傷事件(2018年)、川崎登戸通り魔事件(2019年)など、いくつもの「事件」が思い出される。

これらすべてが、男性による事件だ。日本でも最近ニュースになっている凶悪事件の加害者を見ていると、20代から60代の男性というケースがほとんどだ。

アメリカでは、こうした男性たちによる理由が不明の「凶悪事件」について、2010年頃からある言葉が与えられている。「Toxic Masculinity(トクシック・マスキュリニティ)」という用語だ。日本では「有害な男性性」や「有害な男らしさ」と訳されることが多い。

ただこれは、ちょっと誤解を招く表現のように思う。「男らしさ」そのものが「有害」と決め付けているように見える点も気になるが、それ以上に、この言葉のもつ意味がどうも混乱して使われているように見えるからだ。

「良き男性性」の回復を~Toxic Masculinityという言葉の背景

調べてみると、このToxic Masculinityという用語は、1980年代、アメリカ合衆国で広がったひとつの男性運動のなかから生まれた言葉のようだ。いわゆるミソ・ポエティック運動だ。

ロバート・ブライという1960年代後半のベトナム反戦運動でもよく知られた詩人が始めた運動だ。彼は、当時のアメリカの男性たちが、何か自分に自信がなく、不安定な状況に陥っていることを発見した。

ブライによればその背景には、かつて存在した男の子が「一人前の男」になるための通過儀礼(日本なら元服式を思い出したらいいだろう)がなくなったことがあるという。

また同時に、(男は仕事の社会のなかで)家庭に父親が不在がちで、男の子にとって身近な男性である父親との交流がないことも大きな課題だと捉えた。

そこで彼は、男性同士のキャンプ活動の実施や、父親との深い対話を通じて、男性が「男」としての自分を取り戻し、自信をもって生きられるようにしようとこの運動を展開したのだ(個人的には全面的には賛成しかねるが、ブライ自身は「自分たちはフェミニズムに反対しない」ことは明言している)。

彼の理論の基礎には、実はユンクの「アニムス/アニマ」論(人間性に内在する深層の男性性・女性性のこと。必ずしも生物学的性差とぴったり重なるわけではない)があった。ここから、ブライたちは、男性が生き生きと自分を取り戻すために「深層の男性性(Deep Masculinity)」の回復が必要だと提案したのだ。

「男性性の悪い部分=Toxic Masculinity」を抑制し、「良き男性性(深層の男性性)」を回復させることで、男性たちに自分自身をとり戻させようというこの運動の中で、このToxic Masculinityという言葉が登場したと言われる。

伝統的男性性イデオロギーとしてのToxic Masculinity

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冒頭触れたように、しばらく社会の表面から消えていたこの言葉が2010年前後に“復活”した。背景には、既に述べたような男性の理由のわからない凶悪事件(特に無差別殺傷事件など)や性暴力の頻発などがあったと言われる。

ニューヨークタイムズの記者マヤ・サラマン「トクシック・マスキュリニティとは何か」(2019年1月22日付)によれば、この「伝統的男性性イデオロギー」には、以下のような3つの行為や信念が控えているという。

つまり「感情の抑圧あるいは苦悩の隠蔽」「表面的なたくましさの維持」「力の指標としての暴力(いわゆる“タフガイ”行為)」である。

さまざまな感情を抑圧し、たくましさを自他に証明し続けなければならないと思い込んでいる男性たちが、ストレスや不安定な状況に陥った時、抑制してきた感情を爆発させ、「自分には力があるのだ(俺は弱い人間ではない)」と示すために、過剰な暴力行為に走るプロセスが見出せるということだろう。

「自他を害する過剰な男らしさへの執着」

ただ、日本語にこの言葉を翻訳するとき「有害な男らしさ」とまとめてしまうのは、冒頭でも述べたように、ちょっと気になるところだ。

もう少し説明がないと、この言葉の持つ意味がうまく伝わらないように思うからだ。ちょっと長くなるが「自他を害する過剰な男らしさへの執着」くらいの訳語の方がしっくりする気がすると思う。

何よりも、このToxic Masculinityは他者に有害なだけでなく、自分にも向けられている(「男である」という呪縛により、自分でストレスを抱え込んでしまうことも、この「自他に有害な男らしさへの強い執着」に原因があるからだ)。

また、日本語表現として「男らしさそのものが有害」と誤読されないような工夫も必要だろうとも思う。これまでの社会で形成されてきた過剰な「男らしさ」への歪んだこだわりこそが、この言葉で表現されていると考えるからでもある。

変化に対応しきれず、不安感を背負い込む男性たち

「Toxic Masculinity=有害な男らしさ」そんな訳語で大丈夫か?(伊藤公雄)|ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン

ただしこうしたToxic Masculinityが、ユンク派の人々のアニムス/アニマ論に見られるように、「人間日本来備わっているもの」と超歴史的にとらえてしまうのも問題ではないかと思う。

というのも、あきらかに現代社会のToxic Masculinity現象の背後には、ジェンダー平等へと向かう文明史的転換=歴史的変化があるからだ。

この変化に対応しきれず、古い男性性に執着する男性たちが、ほとんど無自覚なまま背負い込んでいる危機状態(メンズ・クライシス)ないし「剥奪(感)の男性化」(大きな変化に対応しきれず「何か奪われているのではないか」という不安感の男性たちへの広がり)が、Toxic Masculinityの背後にはあると考えるからだ。

男性の側からの暴力の抑止を目指すホワイトリボンキャンペーンにとって、この「メンズクライシス」や「剥奪(感)の男性化」さらには、そこから生じている「Toxic Masculinity=自他を害する過剰な男らしさへの執着」への対応は、今後とも重要な課題になることは間違いのないところだろう。

※当ページ掲載の各画像はイメージです。

編集・構成:松田明功(WRCJ事務局 / スタジオ・ボウズ

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